米軍基地について

沖縄はなぜ基地を拒否するのか

沖縄県民は沖縄島の北部、辺野古におけるアメリカ海兵隊飛行場の建設に対し抗い続けてきた。その闘いは1996年に初めて建設計画が明らかになった時から始まり現在まで続いている。沖縄県民の基地反対の意思は、抽象的な平和主義に基づくものというよりもむしろ、実体験に基づく歴史的なものである。したがって、基地建設反対に対する熱意、勇気、強固な意思について理解するには、沖縄の歩んできた歴史に対する理解が必須である。

 

かつて存在した独立国家琉球王朝は、1872年に日本によって征服・植民地化されて以降、日本への徹底的な同化を強制された。その後、第二次世界大戦中の凄惨な沖縄戦を経て、27年間に及ぶアメリカ軍による軍施政権下に置かれた。1972年、沖縄は日本へ「復帰」するが、結果的にアメリカ軍基地はその後も増え続けることになる。こういった全ての経験こそが、これ以上アメリカ軍が増え続けることを拒否する沖縄県民の決意の背後にある。

 

沖縄と駐留米軍基地

 

第二次世界大戦における最激戦地のひとつ、沖縄。アメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた約3か月にわたる激しい地上戦により、日米両軍と民間人合わせて20万人以上の命が失われた。

 

沖縄戦は日本唯一の大規模な地上戦であり、その激しさは島の地形が変わるほどであった。

 

この戦闘の戦利品として米軍が手に入れた沖縄は、終戦後も27年間にわたり米軍の統治下におかれ続けた。米軍は住民に銃剣を突きつけ先祖代々の土地から追い出し、ブルドーザーで家と畑を潰し、次々と基地を作っていった。

 

戦後73年間が経過した現在でさえ、いまだ沖縄県土の約10%が米軍基地で占められている。また、日本政府による差別的待遇により、日本全体の70%の米軍基地が沖縄に集中している。

 

住民の願いも空しく、基地の縮小は遅々として進まない。そればかりか、わずかな土地を返還する代わりに最新鋭の設備を作らせるという手口で基地機能の強化が図られてきた。

 

1995年の少女暴行事件。米海兵隊員2名とアメリカ海軍軍人1名の計3名が、12歳の女子小学生を拉致し集団強姦した事件である。沖縄県民の怒りは爆発し、米軍基地の縮小・撤廃要求運動にまで発展する契機となった。

 

運動の高まりを受け、米国はようやく基地返還交渉のテーブルについた。交渉の末、日米両政府は大規模な基地返還の合意に至った。


しかしながら、ここでもまた例の「手口」が踏襲された。普天間飛行場という、住宅地の真ん中に位置する危険な基地を返還する代わりに、そこから直線距離にしてわずか50kmしか離れていない、サンゴ礁の広がる美しい海を埋め立てて最新鋭の多機能基地を作れというのだ。

 

辺野古・大浦湾は日本随一の生物多様性を誇る。サンゴ礁、ジュゴンを育む藻場、そして海底に広がる砂地は多種多様な生物のゆりかごである。ここに、沖縄の宝は最大の危機を迎えた。

 

県民は反発。世論調査では常に70~80%が基地建設に反対の意思を示している。対米追従に強烈に傾倒する日本政府の露骨な選挙介入の中、辺野古新基地建設の是非が争点となったほとんどの選挙で反対派候補を勝利させた。そして、非暴力不服従の精神に基づき、座り込みで工事を阻止しようとしている。