沖縄から送られた1枚の写真が本土に衝撃を与えた。「少女轢殺」と呼ばれ、またたく間に広がった。写真を撮った報道写真家、嬉野京子さんは、まだ沖縄にいて、米軍に見つかったら殺されると思ったそうだ。
1965年、沖縄はまだ米軍の施政下にあった。日ごとに本土復帰運動が盛り上がりをみせる一方、米国はベトナムへの軍事介入を始めようとしていた。嬉野さんは復帰運動のようすを撮ろうと沖縄行きを決心。祖国復帰行進団に随行して4月20日、宜野座村に辿り着いたとき、事故に遭遇した。
「子どもが轢き殺された」の叫び声に飛び出してみると少女が学用品をつめた袋を手にしたまま、道路に倒れ込んでいた。即死だった。少女を見下ろす大柄な米兵たちと話しかける地元の警官。驚いたことに警官は加害者である米兵を現行犯逮捕するわけでもなく、米軍車両を通過させるよう交通整理を始めた。沖縄の置かれている実情を目の当たりにした。写真を撮ろうとすると、行進団のメンバーに「米兵が気がついたら、生きて帰れない」と止められた。それでも「本土に伝えたい。命を引き換えにしても」としつこく食い下がった。メンバーの肩越しから1回だけシャッターを押すことが許された。新聞に載った写真は大きな反響を呼び、沖縄が置かれている状況を広く本土に知らしめた。
今もあまり変わらない。日米地位協定に縛られ、米兵の事故や犯罪に対する日本の司法の対応は及び腰のままだ。その意味でもこの写真の訴えるものは、現在にも通じている。
(キャンプシュワブゲート前)
時o
時おり激しい雨が降る中、約20人が座り込んで抗議の意志を示した。午前午後3回にわたり、生コン車などが資材を搬入した。
(大浦湾海上行動)
抗議船2隻、カヌー8艇で海に出る。次々と大浦湾に入ってくる運搬船4隻に向かい「海を壊すな」「違法工事やめろ」などと声を上げた。K8護岸に接岸しようとする台船にカヌーが近づくと、海保が一斉に取り囲み30分あまりで全員が拘束され、浜に連れ戻された。
(琉球セメント安和桟橋前)
日射しは相変わらず強い。昼休みもなくひっきりなしに入ってくるダンプに約20人が出入口にわかれて抗議を続けた。行き交う車やバスにも手を振り続ける。すっかりお馴染みとなった抗議行動には激励のクラクションも少なくない。搬入作業はいつもより1時間早く終了。それでも849台分の土砂が運搬船3隻に積み込まれた。
(本部町塩川港)
本部町島ぐるみのメンバー数人だけで抗議。警察の姿もなし。514台分の土砂が台船4隻に積み込まれ辺野古に向け出港した。
きょう現在までに搬出されたダンプの数と土砂量、全体との割合
これらの数値はあくまでもダンプの台数から推計した参考値です。
2018年12月から2019年12月末までのダンプの数は114,601台(全体との割合は1.39%)
12日(土) | 14日(月) | 15日火) | 16日(水) | 17日(木) | 18日(金) | |
安和 | 665 | 592 | 530 | 773 | 718 | 849 |
塩川 | 0 | 510 | 512 | 511 | 516 | 514 |
現在までのダンプの総数 | 土砂量 ※① | 体積に換算 ※② | 全体との割合 ※③ |
244,034台 | 1,220,170t | 610,085㎥ | 3.020% |